2023年5月6日土曜日

「先生が好きです」

 「先生が好きです」と「告白」されました。「告白」されたのは二回目です。前回は当時中学三年生の女の子、今回は小学四年生の男の子です。   
 
 今年は宮沢賢治没後90年だそうです。私はその男の子に、「『銀河鉄道の夜』、読んでみる?」と言いました。  
 「あ、でもちょっと難しいかもしれないね」。『銀河鉄道の夜』は、対象年齢が小学五、六年生以上とされています。  
 「ぼく、読めるよ」とその子は言いました。  
 「ああ、そうだね。読めるかもしれないね。できるかできないか、私が決めることじゃないよね」と私は言いました。  
 子どもは個人差が大きいのです。『銀河鉄道の夜』が読めるかどうかは、その子次第なのです。  
 「あなたができるかできないか、私が決めちゃいけないのよね」自分に言い聞かせるように、もう一度私は言いました。  
 「先生はそんなことしません!」その子が言いました。  
 「先生は優しいから、そんなことしません」もう一度言われました。   
 そして、「先生が好きです」と「告白」されたのです。「どうもありがとう」、私はお礼を言いました。  
 「ぼくのこと、『できない』って言った人がいる」とその子は言います。「ぼくの目の前で言ったんですよ!」と力をこめて、何度も言います。その子の心はとても傷ついたようです。  
 
 大人が子どものことを「できない」と言うとき、いったい何が「できない」と言うのでしょう。私の目から見ると、子どもにはできることがたくさんあります。たしかに、それぞれできることは違っていて、その子によって、「これはできるけれど、あれはできない」ということはあります。でも、できることがあるのだから、それを伸ばしていけばよいのではないかと思うのです。  
 
 大人が子どものことを「できない」と言うのは、「この子は私が思うようにはできない」ということなのではないでしょうか。大人が、そうあるべきと思っている型に、その子がはまらないので、「この子はできない」と言うだけのことなのではないでしょうか。 
 
 以前「告白」してくれた女の子にも言われました。「先生は、『ああしなさい、こうしなさい、そうしなきゃダメ、ああしなきゃダメ』って言わないじゃない?」。そう言われればそうです。でも、そう言ってはいけないと思うから言わないのではありません。それより大事なことがあると思うから、それを優先しているのです。  
 
 子どもには、「できない」と言って無理にやらせるより、できることを探してそれを伸ばしたほうが効果があります。できることをやってもらっているうちに、なぜかできなかったこともできるようになってしまうことさえあります。「できない」と言って、まず子どもの心をくじいてしまわないことが大切なのではないでしょうか。

2018年7月4日水曜日

ウソをつく子どもたち

 意外と言うべきか、当然と言うべきか、子どもたちの中には、ウソをつく子どもも存在します。もちろん、大人も含めて、ウソをついたことのない人などいないだろうし、罪のないちょっとしたウソをついて、バレなかったなどという経験はだれもがしているでしょう。

 ですが、ここで気になるのは、相手を見て態度を変え、だませそうな相手だったら、ウソをついてでも得をしようとする大人顔負けの子どもの策士がいるということです。

 ウソと言えば、以前こんなことがありました。衣替えの季節に、前の年にクリーニングに出したニットのパーカーを衣装ケースから出し、ハンガーにかけようとして、フードのひもの先に付いていた筒状になった金属の付属品が一つないことに気づきました。フードのひもの金属は左右に付いていたはずです。それが片方ないのです。

 パーカーがクリーニングからかえってきたときには、私はそのことに気づきませんでした。気づかずに、そのままケースに入れてしまったのです。どうして気づかなかったのか。それは、気づかれないように工夫されていたからだと思わないわけにはいきません。パーカーは、きちんと上までファスナーがあげられていたうえ、ひもがリボン結びにされていたのです。それでは一見して付属品がとれているとは気づきません。

 クリーニングの営業担当の方はとても誠実な方で、パーカーの件についても、丁寧に対応してくださいました。こちらが申し訳なく思うほど、懸命に対処していただきました。けれども、営業の方が真面目な方であればあるほど、どうして工場のほうではこんなごまかしをするのだろうと思いました。第一、隠したとしても、いずれバレてしまうのです。そのときは逃れることができても、最後は責任をとらなくてはならなくなります。

 クリーニング工場は確かに、付属品をなくしたことを隠したと思われます。パーカーのひもをリボン結びにした際に、付属品がとれていることに気づくはずだからです。ではなぜ工場の担当者は、そのことを隠してそのまま出荷したのでしょう。

 お互いに顔が見えないとしても、業者と客の間にもコミュニケーションが成立しています。業者と客は、お互いにコミュニケーションの相手なのです。双方の考えや行動には、お互いのあり方が影響しあっているはずです。つまり、客がこうだから業者もこう、客がそうだから業者もそう、というように、客の態度に応じて業者の反応も違うのではないかということなのです。

 「お客様は神様です」などという言葉があるように、とかく客は業者に対して厳しくなりがちです。「お金を出すのだからそれに見合ったサービスを受けるのはあたりまえ、失敗なんて許さない!」という人も多いのではないでしょうか。

 もしかしたら、そのクリーニング業者も客のクレームが怖かったのではないでしょうか。容赦のない客からのクレームにさらされ続け、たとえ一時逃れにしかならなくても、とにかく失敗は隠すというやり方になってしまったのかもしれません。客が業者に対してもう少し寛大であったら、業者も失敗を隠すことなく、正直に申し出てくれるのではないかと思うのです。

 さて、ウソをつく子どもたちです。ウソをつく子どもたちのコミュニケーションの相手は大人たちです。子どもたちは大人たちとコミュニケーションするうちに、ウソをつくようになってしまったということはないでしょうか。

 クリーニングの例にもみるように、「できてあたりまえ、失敗なんて許さない!」という態度は、相手を委縮させるだけでなく、叱責から逃れるためのウソをつかせることにもなりかねません。失敗する子どもを受け入れず、叱責ばかりしていると、子どもは自分のことをダメだと思い、やる気をおこすこともなくなります。

 さらに、失敗することも含めて自分を受け入れてもらえることのない子どもは、人間関係を利害関係で見ることしかできなくなります。過程ではなく、結果がすべてになってしまい、失敗するか成功するか、うまくやるかやらないか、損をするか得をするか、そんなことにしか興味をもたなくなってしまうからです。人間関係を利害関係としてしかとらえられないと、他人とは利用するものという考え方になっていき、だれかと真の信頼関係を築くことができなくなります。

 子どもにウソをつかせないために、大人は寛大にならなければならないでしょう。子どもを甘やかしてはいけないという人がいますが、子どもに対して、寛大であることと甘いこととはもちろん違います。子どもに対して寛大であるというのは、寛大であることの意味と必要性を自覚し、子どもの可能性を信じて、成長の過程としてのその子の失敗を受け入れながら、根気強く見守るということです。

 子どもの失敗に対する大人の反応は、その子の将来の人間関係にまで影響をおよぼします。それは、その子が将来幸せになれるかなれないかということと同じ意味です。子どもが失敗したとき、大人はどう反応すればよいか、よくよく考えなければならないことだと思います。

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2018年3月4日日曜日

子どもの葛藤、もう一人の自分

 小学2年生のHくんが、「もう一人の自分」という題名の作文を書きました。

 Hくんが映画を観ていたときのことです。館内で赤ちゃんが泣きだし、「うるさいからやめてくれ」と思う自分が出てきたそうです。でも、映画が終わってしばらくしたら、「まあ、赤ちゃんだから許そう」というもう一人の自分が出てきたのだそうです。Hくんは、「ぼくは、かならず人は二人以上いるものだとわかりました。」と書いています。

 Hくんとよく話してみると、実はHくんの中には、二人どころか、ときには三十人くらいのHくんがいることがあるそうなのです。

 どんなときに三十人のHくんが現れるかというと、学校や家で、先生や親などの大人に、「こうしましょう」と指示されたときのようです。「こうしましょう」と言われると、「え、今?」、「やらないといけないのかな?」、「どうしてやらないといけないの?」、「やったほうがいいのかな?」、「めんどうだな」、「怒られたくないな」、「よし、やろう!」などと、三十人のHくんたちは、際限のない議論をするのだそうです。

 では、どんなときにHくんは一人でいられるのかと聞いてみました。すると、サッカーやボルダリングなど、自分が好きなことをしようと思ってするとき、という答えが返ってきました。

 「ぼくは、もう一人の自分にでてきてほしくありません。なぜならまよいたくないからです。でもまようからでてくるのですよね。」とHくんの作文は結ばれています。子どもといえども、葛藤と無縁ではありません。

 私は、葛藤自体は悪いことではないと思っています。葛藤とは、自分自身との対話であり、そうして自分と対話をかさねることによって、自分の考えをまとめていくことができるからです。自分自身との対話を通して、自分が本当に望んでいることや、自分が今すべきことがだんだんはっきりしていきます。自分との対話はおおいにしたほうがよいのです。

 問題は、何十人ものHくんが出てきてしまうときというのが、大人からの指示をうけたとき、ということです。やはり、私が「こうしてね。」と言っても、葛藤する子どもはいるということです。そして中には、指示通りにしてくれない子どももいるわけです。

 大人は基本的に、指示をするのはその子のためになるからだと信じています。ですから、「そうしなさい。」と指示します。ですが、指示というのはあくまでもその子の外側からくるものだから、子どもにとっては、その外側のものに無理にでも自分を合わせないといけないということになります。そこで子どもは葛藤するわけです。

 指示の内容にはもちろんいろいろありますが、もし、その内容が、その子がよりよく生きていくうえで大事なことであった場合、指示は決して命令になってはいけないのではないかと思います。自分の外側から来た命令に従わなければいけないと考えたら、いくらよいことであったとしても、抵抗したくなる気持ちがわいてくることもあるでしょう。

 それでは、「よいこと」をしてもらうためにはどうしたらよいのでしょう。それには結局、気づいてもらうしかないのではないでしょうか。それが「よいこと」であることをなんらかの仕方で伝え、気づいてもらう、その作業をくり返すしかないように思います。

 「よいこと」の重要性に気づいた子どもは、主体的にその「よいこと」に取り組みます。子どもが主体的に物事に取り組むようになれば、大人は楽になります。そのときどきに、「よいこと」の提案をするだけですむからです。

 残念ながら、子どもの中には、大人に何か言われたら、とにかくその場をやり過ごせばよいと考え、内容の重要性を理解しないまま、指示されたことをいいかげんにやるという癖がついている子もいます。そのような子は、大人からの叱責を避けるために、うわべをとりつくろったり、嘘をつくことさえあります。また、相手を見て態度を変えたりすることもあります。ですが、そんなことをするのは、もともとはその子の責任ではないのではないかとも思います。そのような子は、もしかすると、周囲の大人から指示され続けてうんざりし、自分の身を守るためにそのような処世術を編み出したのかもしれないのです。

 気づいてもらうために、具体的にどのようなことをしていけばよいのかということは、その都度、その子どもごとに考えるしかないでしょう。いずれにしても、大人は、なるべく外側から指示するだけにとどまらず、その「よいこと」がどうしてよいのか(前提として、その「よいこと」は、その子にとって、本当に「よいこと」でなければなりませんが)を子どもに理解してもらう努力を続け、いずれ子どもが主体的に「よいこと」をしてくれるように導く必要があるでしょう。そうすれば、子どもの頭の中で、三十人の議論が行われることもなくなるのではないかと思うのです。

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2017年8月19日土曜日

くろねこのどん

 私がおこなっている読書感想文講座のなかには、親子参加可能なものがあります。そこではときどき、本の読み方について、お母さんやお父さんから質問をされます。今年は、課題図書の一冊、『くろねこのどん』についてでした。

 『くろねこのどん』は、どこからともなく現れたくろねこと、えみちゃんという女の子との不思議な交流と別れが描かれたお話です。

 えみちゃんは小学校一年生です。まだまだ小さな女の子なのに、お母さんがお出かけをしてしまって、ときどき一人でおるす番をしています。その日もえみちゃんは一人でおるす番をしていました。そんなときやってきたのが、4本の足先と鼻先だけが白くって、ほかはまっ黒の子猫のどんでした。外は雨。えみちゃんはびしょぬれのどんのからだをふいてやります。

 そんなことがあってから、どんは、えみちゃんが一人でいるとやってきます。夜中に来ることもあります。ときにはなかまの猫たちをつれて、どんはえみちゃんのところに遊びに来ます。えみちゃんとどんは話をすることもできれば、ごっこ遊びをすることもできるのです。

 あるときえみちゃんとどんは、高い松の木に登って雲を呼びよせ、雲に乗って空を飛びます。なんてすてきな旅だったことでしょう。どんといっしょだと、夢でしか見ることができないことでもできてしまいます。えみちゃんとどんは、おたがい一人でちょっとさみしいとき、いっしょに遊ぶことのできるこの上ないなかまでした。

 季節がうつりかわり、どんは大きくなりました。人間のえみちゃんはまだまだ子どもです。えみちゃんはどんと遊びたいと思っているのに、どんはそうでもなさそうで、えみちゃんはちょっと不満です。えみちゃんは遊びに来なくなったどんを探します。でも、やっと見つけたと思ったら、「だめだよ、こっちにきちゃ」なんて、冷たく言われてしまいます。

 えみちゃんはどんのことが好きで、前のようにいっしょに遊びたいと思っているのに、どんはそうではないようです。えみちゃんは前とあんまり変わっていないのに、どんは変わってしまったのです。

 お話の最後で、えみちゃんは夢を見ます。どんと、前にいっしょにサーカスごっこをしたことのある三毛猫の結婚式の夢です。えみちゃんの夢の中で、どんは三毛猫と結婚したのです。えみちゃんは、「どん、おめでとう!」とやっとのことで言うことができました。どんはもう三毛猫といっしょだから、えみちゃんのところには遊びに来ないにちがいありません。……

 子どもがこの本を選んだお母さんは、私に言いました。「これは難しいですねえ。どうやって子どもに教えたらいいのかわかりません。」お母さんの解釈はこうです。「これは、子猫が成長してしまって、発情期をむかえたってことですよねえ。はっきり書かれてはいないけど、これはそういうことですよねえ。となりのみみにどんが乱暴するようになったから、どんが来れないようにしたっていうのはそういうことですよねえ。」

 お母さん、鋭いです。たしかにそのように読めます。人間と猫の成長のスピードはあまりに違うので、えみちゃんはまだ子どもなのに、どんは大人になってしまいました。猫と人間という種の違いをこえて仲のよい関係をきずいていたどんとえみちゃんは、種の違いではなく、成長の度合いの違いという違いによって、へだてられてしまったのです。

 この本を読む子どもたちには、えみちゃんとどんがなぜ別れなければならなかったのか、はっきりと理解することはできないでしょう。大人が読めば、あのお母さんのように、猫が大人になって、発情期をむかえて、子どもなんかと遊ばなくなったからだと説明することができるかもしれません。でも、発情期がなんだかわからない子どもには、大人になるということの意味もわかりません。そしてそれは、本の主人公のえみちゃんにとっても同じだったのです。

 えみちゃんはどんとの別れという変化を経験しなければなりませんでした。今まであんなに仲よくしていたどんとなぜ別れなければならないのか、えみちゃんにはよくわかりません。よくわからないけれど、どんがもう自分のところに来ないだろうということはわかります。えみちゃんはどんとの別れという変化を受けいれなければならないのです。

 この本を読んだら、どうしてえみちゃんはどんの結婚式の夢を見たかと考えてみるとよいかもしれません。えみちゃんは、どんの結婚式の夢を見なければいけなかったのです。どんと別れるのはしかたのないことだと、納得する必要があったのです。どんが自分と遊んでくれなくなったのは、三毛猫と結婚したからだと考えれば、納得できます。もうお相手がいるのだから、えみちゃんのことろになど来ないのは当然です。

 えみちゃんは、どんとの別れに、どんが結婚したからだという理由をつけました。えみちゃんの見たどんの結婚式という夢は、えみちゃんがどんとの別れの理由として、編み出したものです。そういう理由があるということにしたおかげで、やっとのことでしたが、えみちゃんはどんとの別れという変化を受けいれることができたのです。

 子どもといえども、生きていれば常に変化にさらされます。よい変化であれば積極的に受けいれることができますが、ちょっとさみしい変化など、なかなか受けいれがたいにちがいありません。そんなとき、子どもたちはその変化を受けいれるために想像をして創造的になります。えみちゃんの夢はそんな一例なのではないでしょうか。

 人生にいやおうなしに訪れる変化ですが、どんとえみちゃんの場合のように、変化の本当の理由を知ることにはそんなに大きな意味はないかもしれません。本当の理由を知ったところで、どうしようもないからです。それよりも、えみちゃんのように、自分が納得のできる理由を編み出したほうがよいでしょう。自分さえ納得できれば、踏みとどまらずに、また前へ歩いて行けるようになるからです。

 どんとは違って、えみちゃんのからだはなかなか大きくなりません。えみちゃんが大人になるまでにはまだまだ長い時間がかかります。ですが、どんとの出会いと別れをとおして、えみちゃんが学んだことはたくさんあるはずです。えみちゃんはそうして、ゆっくりゆっくり大人になっていくのです。

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読書感想文講座

 夏休みも終盤になりました。子どもたちはそろそろ、夏休みの宿題と格闘し始めているころなのではないでしょうか。

 今年も私は、夏休みの定番、読書感想文の指導を行っております。今回は、そのとき気づいたことについて書いてみたいと思います。

 感想文指導をしていて毎年感じることの一つに、子どもたちははたして、本当に自分に合った本を選んでいるのだろうかという疑問があります。昨年も一人、今年も一人いたのですが、話を聞いてみても、「(その本の中に)おもしろかったところなんかない。」、「感動したところなんかない。」あるいは、「どうしてそんな風に思うのか、主人公の気持ちがわからない。ぜんぜんわからない。」などと言われてしまいました。

 こんなとき、どういうアドバイスをしたらよいのでしょう。「もっとよく読んでごらん。きっとおもしろいところがあるよ。」、「よく読んでみれば、きっとわかるよ。」などと、あくまでもその本を読むことをすすめるべきでしょうか。

 感想文講座自体は時間が限られているうえ、ほかの生徒もいるので、そのような子どもたちの話をそれ以上詳しく聞くことはできませんでした。ですからこれは後から考えたことなのですが、私は、選んだ本がおもしろくない、あるいはわからないという子どもたちに、その本を無理に読んでもらう必要はないのではないかと考えます。

 あたりまえのことですが、子どもは一人一人興味や好みが違うし、同じ年であっても、精神的な成長の度合いが違います。一律に課題の図書をあたえても、それらが合う子と合わない子がいるのは当然です。

 もちろん、毎年選定される課題図書もそのあたりは工夫をしていて、学年に応じて、ファンタジーから、社会問題をふくんだ物語、ノンフィクションや科学的なものまで、いろいろ取り混ぜてあります。それぞれの子どもの興味と特性に合わせて、その中から課題の本を選ぶことができるのです。

 もっとも、すべての子どもが毎年課題図書の中から読む本を選ぶわけではありません。課題図書以外の中から自分が気に入った本を選ぶ子どももいます。そのような子どもはどのようにしてたくさんある本の中から、自分が読む本を決めるのでしょうか。そう言えば、私が子どもだったころ、読む本はどのようにして選んでいたのでしたっけ。記憶の糸をたぐってみます。

 私の場合、父が本好きで、家には常にたくさんの本があったということがあります。ですから、小学校も高学年になると、父の本などもときどき勝手に本だなの中から引っ張り出して読んでいました。そして、それと同時に児童書も読んでいました。学校の図書室から借りる本のほか、本好きの父が私たち子どものために買ってくる本も読みました。父の買ってきた本の中には、今でも手もとに置いてあるようなお気に入りのものもあります。

 このように、私が子どもだったころ、私のまわりには本がたくさんあって、私はたくさんの本に触れて成長しました。それら一冊一冊の本との出会いはすべて偶然です。偶然出会った数多くの本の中から、私は、好きな本、嫌いな本、興味のない本、などと選別していったように思います。結局、自分に合った本を見つけるのには、まず多くの本を手に取ってみないといけないのではないでしょうか。

 本を購入してから、合わないことがわかった場合、ちょっと困ってしまうかもしれません。もう一冊買いなおすのは経済的ではありません。ですので、あまり強くは言えないのですが、もしも選んだ本が自分に合っていないとわかった場合、できれば別の本を選びなおしてもらえればと思います。合わない本を読んで、よい感想などもてるはずがないからです。

 今年の講座で、「主人公の気持ちが全然わからない。」と言った子は、とても聡明で早熟な印象でした。選んだ本は、その子の学年にはおすすめの本だったのでしょう。でも、私が見た限りでは、その本はその子にはやさし過ぎました。その子は、もっと難しい状況や、複雑な心理が描写されているような本のほうが、むしろ理解できたのではないかと思うのです。

 よい読書感想文を書くためには、その本と対話しなければなりません。本が隠しもっている問いかけに気づいて、本と、あるいは主人公と対話をかさねて、その問いに対する答えを探していくのが本を読む醍醐味です。本を読みながら、書かれていることや主人公に共感したり、あるいは反発を感じたりすることでしょう。そうやって心を動かしながら、本を読んでいくことができたら、その読書はよい読書だということができるのです。

 気の合う人や気の合わない人がいるように、合う本もあれば合わない本もあります。感動を共有できる人がよい友だちになれるように、読んで共感できる本はその人にとってよい本です。よい友だちを探すように、よい本を探してみれば、きっと見つかることでしょう。

 さて、自分に合ったよい本だと思って読み始めた本でも、「あれっ?これはちょっとわからないな。」などと思うことが出てくることがあります。仲のよい友だちとでも、ときどき意見が食い違うのと同じです。そんなときは、簡単に賛成してしまわないで、その本や主人公のどこにひっかかったのか、よく考えてみてください。

 本に書かれていることに疑問をもったということは、その本や主人公と自分が違うということです。本や主人公の考えと自分の考えが同じではないということです。仲のよい友だちとでもときどき意見が合わないのと同じで、好きな本であっても、すべて同じ意見とは限らないのです。

 そんなときはチャンスです。徹底的にその本と対話して、自分と本や主人公の違いをはっきりさせましょう。自分とは違う本や主人公のおかげで、自分のことがわかります。自分はこんなとき、こういう考えをもつのだということがわかったり、自分はこういうことが好き、あるいは嫌いだということがわかったり、自分のことがたくさんわかります。

 読書感想文講座では、「本を読むと出会えるものがたくさんあるよ。」と言うことがあります。「どんなものに出会えると思う?」という質問に、子どもたちは、「登場人物!」、「作者!」、「行ったことのない世界!」などと答えてくれます。私は、「もっともっと重要な出会いがあるよ。」と言います。そしてけげんそうな子どもたちの顔を前にして、「本を読むと、自分自身に出会えるんだよ!」と自信満々に宣言します。

 読書経験はこのように、自分自身と出会うよい機会の一つです。自分がどういう考え方をし、どういうものを好み、あるいは嫌うのか。読書は、自分自身のことを知って、生き方を考えるよいチャンスなのです。よい対話相手、つまり、自分に合ったよい本を選ぶ必要があるのはそのためです。

 近年は、大人も子どもも活字離れをしていると言われています。ですが、本を読むという経験は、私たちの人間としての成長を約束してくれます。大人も子どもも、たくさんの本に触れてみてほしいと願います。

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2017年1月21日土曜日

言葉も絶滅する!

* アフリカのタンザニアという国には、たくさんの民族が住んでいます。民族というのは、同じ地域に住んで、同じ言語・宗教・生活様式などをもつ人々の集まりのことです。たくさんの民族が違う言葉を話し、同じ国の中で言葉が通じないのは不便なので、タンザニアでは、スワヒリ語という共通語も使われています。

アリー塾長   :   同じ国の中でも言葉が通じないというのは、日本でもあるよね。方言っ 
              て知ってる?
Rちゃん     :   知ってる。
アリー塾長   :   どんな方言知ってる?
Rちゃん     :   「つんつるてん」とか。
アリー塾長   :   「つんつるてん」!その言葉、私も知ってる!それって、洋服の袖とか丈が
              短いって意味だよね?千葉の言葉だよね。みんなが大きくなって、服が小さ
              くなっちゃったとき、「つんつるてん」になっちゃった、って言うんだよね。
              ほかには?Tくんのおばあちゃんとおじいちゃんは九州にいるんだよね?九
              州の言葉ってどう?
Tくん       :   九州の言葉はわからない。おばあちゃんたちと話していて、ときどきわから
              ないときがある。
アリー塾長   :   やっぱり!そういうのを方言って言うんだよね。
              千葉の方言はほかにもあるよ。「だっぺ」っていうの知ってる?
Tくん       :   知ってる!
アリー塾長   :   どうして知ってるの?最近あんまり使う人はいないのに。
Tくん       :   学校の先生が言う。先生は、教えるときに一生懸命になると、「だっぺ」って
              言うようになる。
アリー塾長   :   ああ、そうなんだ。先生が一生懸命になると、「だっぺ」って言いだすんだ。先
              生は千葉の人なんだね。
Tくん       :   そう。              
アリー塾長   :   ほかにも、聞いてもわからない方言はたくさんあるよね。
              沖縄でもともと使われていた言葉なんて、聞いても本当にわからないよ。
              でも、言葉が通じないと困るからね。だから、日本にも共通語というものがあ
              るんだよ。共通語は東京の、とくに山の手の言葉をもとにしたものだよ。
アリー塾長   :   ……、動物や植物の中に絶滅してしまうものがあるように、言葉も絶滅して
              しまうものがあるんだよ。世界中で、毎年いくつもの言葉が絶滅しているん
              だって。その言葉を話す人がいなくなってしまって、言葉も絶滅するんだよ。
              方言ってなくなってしまってもいいと思う?
Tくん       :   いけないと思う。
アリー塾長   :   どうして?
Tくん       :   そこに生まれた人はずっとその言葉を話してきたんだから、変えてしまうの
              はよくないと思う。
アリー塾長   :   そうだよねえ。言葉を変えるのは大変だよねえ。
              それに、その言葉でしか言いあらわせないことやものがあるからねえ。「つ
              んつるてん」なんて、本当によく感じのでている言葉だよ。(身振りをまじえ
              て、)「つんつるてん」!なんて、本当に「つんつるてん」!だよ!
アリー塾長   :   ……私たちは今、日本語を学ぶために、こういう勉強をしているね。私たち
              民族の言葉である日本語は大事だよね。でも、世界の人たちと話すために
              は世界の共通語とでもいうものを話せるようになっているといいよね。今、世
              界の共通語のようになっている言葉って何か知ってる?
Aくん       :   英語。
アリー塾長   :   そうだねえ。この間、総武線快速の中で中国の人に英語で新橋への行き方
              を聞かれたよ。中国の人と、日本人の私が英語で話したんだよ。世界の人と
              話をするために、英語も勉強しておいたほうがいいよね。


*アリー塾長の一言

 世界には絶滅してしまった言語がたくさんあります。今でも、言語の数自体は減り続けています。
それはどういうことを意味しているのでしょうか。

 対話の中のTくんの発言がおもしろいことを示唆しています。Tくんの学校の先生は、生徒に教えながら力が入ってくると、方言になるそうです。先生が夢中で教えているとき方言になるというのは、そこで、気取りのない、本当の先生が出てきたということなのではないでしょうか。

 方言は、その人が、生まれた土地で最初に身につけた言葉です。その人は、方言とともに育ってきたのです。方言とともに作られたのが、その人なのです。その人が本来の自分、素の自分を表現するには、方言こそがふさわしいのではないでしょうか。

 Tくんは、その人が生まれてからずっと使ってきた言葉なのだから、方言はなくならないほうがよいと言いました。方言を否定しないことは、それを使う人を尊重することにもつながるでしょう。

 言葉とは、常に意味内容という概念や観念をあらわすものです。ある一つの言葉を失うということは、その言葉の意味していた観念も失うということです。対話の中に出てきた「つんつるてん」という言葉がなくなってしまったら、「つんつるてん」という状況もなくなってしまうのです。

 多様な価値観や考え方を失わないために、言語の多様性を保つ必要があるのではないでしょうか。

 インターネットなどで世界の人たちとも簡単につながることのできる今日、一方では、世界中の人たちとコミュニケーションをとることのできる共通語を身につけることも必要でしょう。日本語と、日本語による考え方という個性を確立したうえで、英語などの世界の共通語を身につけて、世界に向かっておおいに発信したいものです。



              
      

2016年9月18日日曜日

学びと感情

 高校一年生のTくんが、「懐かしいという気持ちがわからない」と言いました。主人公が、何十年ぶりかで、故郷を訪ねたという文章を読んでいたときのことです。その主人公にとって故郷は、よいことも悪いこともあったところです。

 「主人公の気持ちは複雑だね。そこで起こったよくないことを思い出して嫌な気分になったり、反対に楽しかったことを思い出して懐かしくなったり…。Tくんは昔のことを思い出して、懐かしくなったりすることない?」と私は聞きました。

 すると、「…ありません。」とTくんは答えました。

 たしかに、高校一年生のTくんは、たかだか十数年生きてきたに過ぎません。多くのことを経験しているはずもなく、昔と言ってもせいぜいここ十年間くらいのことで、これと言った思い出がないと言われれば、そういうものかとも思います。Tくんの何倍も生きている私とはわけが違うのです。

 ですが、少し気になるのは、「子どものころ、こんな遊びをして楽しかったとか、どこかへ行って楽しかったとか、そんな思い出もないの?」と尋ねても、「特にありません。」とTくんが答えたことです。

 「懐かしい」を辞書で引くと、「昔のことが思い出されて、心がひかれる。」(大辞林)とあります。「懐かしい」とは、「心」が感じることなのです。心が感じる感情、「懐かしい」という心の動き、つまり「懐かしい」は感動の一つなのです。

 そういえば、Tくんは、日ごろ自分の感情をおもてに出すほうではありません。表情もあまり豊かとは言えず、今、Tくんがどういう気持ちなのかを推し量るのは簡単ではありません。笑った顔を見せたこともほとんどなく、もしかしたらTくんは、自分の感情を制御しながら、毎日を合理的に暮らしているのかしら?と思ってしまうことがあります。そんなTくんはまだ、楽しそうに文章を読んでくれたことがありません。

 実は私は、楽に学ぶためには、感情を味方につけるのが一番いいのではないかと思っています。なぜかと言うと、本来の学びには感情がともなうものだと考えているからです。

 「いったいこれはどういうことなんだ!」ととまどったときに、だれかからそのことについての説明を受けたり、自分で調べたりして納得し、「そうか、そうだったのか!」と軽く興奮したことはないでしょうか?その興奮が感動です。新しい知識をえて、心が動いたのです。普段あまり意識はしないかもしれませんが、学びにはたしかに感情がともなうのです。

 しかもその感情は、決してネガティブなものではありません。「知って、うれしい!」という喜びの感情です。うれしければ学びたいと思います。知ること、学ぶこと自体がおもしろくなります。そのような経験を積み重ねると、あらゆることへの興味がどんどんわいてきて、学ぶことが楽しくなるのです。

 勉強はやらなければならないもの、という意識でやっている子どもは多いと思います。入りたい学校に入るためには勉強しなければならない、本当はやりたくないけれど、しかたないからがんばっている、そんな子どもはたくさんいるでしょう。でも、そんな気持ちで学んで、「知って、うれしい」という感動はえられるのでしょうか?

 「今の時代、学校に入れなければ話にならない。」と言った人がいました。その言葉が本当かどうか私にはわかりません。けれども、そのような意識で勉強したとしたら、「知って、うれしい」という感動をえられるどころか、学びが苦痛になってしまわないでしょうか?

 学校に入るために勉強していて「うれしい」という気持ちになれるのは、成績が上がったときなどでしょう。ですが、そのような喜びは一時的なもので、すぐまた次の試験に備えなければなりません。次から次へと追われることになります。いつも試験に追われていては、気の休まるときがないのではないでしょうか?

 要は、学び自体を目的にすることではないかと思います。学校に入ることを目的とはしないで、学ぶこと自体を目的として、学ぶこと自体を楽しむとよいのではないでしょうか?学ぶこと自体を楽しんだ結果として、成績も上がる、それはあるでしょう。

 国語であれば、まず、文章を読むことを楽しむ、内容について考えることを楽しむ、そして、自分の意見をまとめ、それを書くことを楽しむ、それができたときに、学びにともなう感動がえられ、同時に実力がつくのです。教室でも、「文章を読むことが楽しい」と言えるようになった生徒はめざましい成果を出します。

 人間にとって感情は、非常に大切な要素です。Tくんのように、自分の感情をおさえつつ、大きな成果を出すことは実はとても難しいことなのです。それよりも、自分の感情に正直に向き合い、今自分がどんな気持ちなのかと常に自分自身に尋ねてあげるとよいでしょう。感情は、その人がおかれている状況や、その人にとって、まわりの人がどうであるかということなどを伝えてくれる重要な指標なのです。

 ことは塾にとって、勉強することは、入りたい学校に入る方法ではありません。学ぶことは、それ自体を楽しむものです。学ぶことは目的なのです。そして学ぶときには、気持ちを本来のあり方にリセットして、それぞれの課題と向き合わなくてはなりません。気持ちが本来のあり方をしているとき、学ぶことは苦痛ではなく、喜びになるはずだからです。

 ときどき、受験勉強が負担になって気持ちが不安定になってしまったというお子さんの話を聞きます。そのような話を聞くにつけても、人間にとって、感情というものが何よりも大事なものだという意識をあらたにします。苦痛があるということは、どこかに無理があるということです。そのようなときには、心の状態に注目し、なによりも、まず気持ちを整えるという作業と時間が必要でしょう。

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